2014年10月22日水曜日

社会的に排除された女の子

 Skins第1世代で、マキシーのストーカーとして登場するスケッチ。わたしが思うに最もノー・フューチャーな女の子。

 例えば、アンワーは、Aレベルでひどい成績をとり大学進学が絶望的となっても、一緒にロンドンに行こうよと誘ってくれる親友のマキシーがいる。もしロンドンに行かなくても、敬虔なイスラム教徒の家庭に生まれた彼には、受け皿となるコミュニティも家族もいる。でも、スケッチには何もない。自分とマキシーはいずれ結ばれる運命なのだという思い込みだけ。彼女に待っている現実は、地元に残り、病気の母親を介護することだけ。ああ、この子を取り囲む状況はなんて恐ろしいんだろうか。

 Skinsと同じ系列局で放送されていた「TOP BOY」というロンドンの公営住宅周辺の男の子たちのお話がある。このドラマはおそらく2人主人公がいるといってよくて、1人は売人のドゥシェン。彼がロンドンの麻薬産業の中でどうサヴァイブしていくかというのが物語の1つ軸。もう1人の主人公ラネルは、母親が精神科に入院して1人取り残され、さあどうする?というお話。入院した母親は病院のスタッフに「家族は?」と尋ねられるが「いない」と答え(おそらく息子と引き離されると思ったから)、そこから彼のぼっち生活が始まる。ただ、ラネルはスケッチと違う。まず、母親は見舞いに来た友人男性にラネルのことを頼む。それに、ドゥシェンが仲間に入らないかと持ち掛ける。ドゥシェンは彼にこんなことを言う。「お前のママは最近見かけないよな,、おれらは家族だ、金を稼いで一人前の男になりたいなら面倒見てやる」。これは売人への悪魔のお誘いなんだけど、どう判断したらいいんだろうとわたしは途方に暮れる。

 イリーガルな稼業に手を染めないほうがいいに決まってる。小金は稼げてもたいていは割に合わない。ギャングの命はえてして短い。でも、すべてから見捨てられたスケッチとギャングだけど手を差し伸べる相手のいるラネル(いやラネルにはママの友人がいるんだけど)どっちがマシなのだろう。わたしは「牛丼は社会保障」論に懐疑的なのと同様に、ひどい選択でも命をつなぐのだからあるだけマシとは言い切れない。これは確かなこと。しかし、誰もいないより誰かいた方がいいのも同じように確か。じゃあスケッチよりギャングに勧誘される男の子の方がマシなの?そんなわけないよね?そもそも、こんな問いの立て方自体が倫理的に間違っているのは分かっている。でもスケッチのエピソードを観る度に、社会からの排除される程度問題についてぐだぐだ考え、鬱々とする。

 ちなみに、スケッチ役のエイミーは「ジョン・ルーサー」で家出をした挙句、ポルノ映画に出演する女の子の役を演じている。



 

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